じんだ

 昭和年代中頃まで、集落の主要行事の後の食のもてなしには必ずといってよい程、「じんだ」が振る舞われた。

じんだは、この村にとって欠くことのできない食の一品であった。じんだじんだ、これ程までにもてはやされながら、時の流れと共に(あぶく)の如く忘れ去られようとしている食文化の一つである。

 原材料は言うに及ばず、(おか)の肉とも言われる大豆であるので、栄養価など詮索する要もないが、何故に忘却の彼方に追いやられようとされるのか。先ず調整の段階で簡便と上面(うわづら)の美を(こころ)とする現代の主婦の嗜好に合わないこと、店頭には豊富な好みの食品・惣菜が百花の如く並べられていること、それに台所の形態がすっかり洋風化されて石臼などの旧世紀の食に関する用具の居所がなくなって放逐されたことなど、いろいろ考え合わせてみると、じんだの影をひそめたという事由がうなずける。
 今は唯、半ば義務的な寺院の年一度の仏事「報恩講」のお(とき)の汁物として、やっとこさの思いで影をとどめているに過ぎない。

 調理法は、大豆を一晩水にふやかしておくとふっくらふくらんで豊満な形になり(かさ)上がってくる。その豆を鍋に移してひたひたに水を注ぎ火を入れる。煮過ぎると風味が損なわれるので、煮立ちが始まり、やや暫く、二・三粒口に入れて、まだ豆特有の青臭さが残る程度の所で下ろし、ショウケ(ざる)にあけ込んで、豆と煮汁に分割する。そして豆を臼で丹念に()くと濃い豆乳になる。そこへ先程の煮汁を加えて薄め、汁にして醤油で味付けをする。昔は汁の濃淡で味の良し悪しを判断したが、現在では贅沢にも油揚げ・煮干し・味の素などの調味料を加えた醤油で味付けする。汁物なれば人数によって如何様にも加減ができるし、焦げつかない様に()き混ぜ沸騰寸前ででき上がり。
(この調理過程から推理すると、各家庭にあるミキサーでも充分できる筈である。)

 出来上がったら兎にも角にも、熱い中にいただかないと美味しくないので、汁椀に汲んでは飲み下す。また、飯にかけて食ってもよい。一般的に陽気の寒くなりかけた中秋から冬にかけての汁のものであり、一味・ねぎなどの薬味を添えると尚一層風味を引き立て、食欲を増す。

 豆腐も栄養価が高いといわれるが、じんだは豆ごとまるまる、要するにおからも入っているので価値たるや言うに及ばない。これを食すると親父は精も出るし、(かか)さは喜ぶいって、じんだじんだと親しまれたものだ。

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